Archive for 2011年4月

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備えあっても憂いはあるが

4月 15, 2011

小さい頃から、そのうちまた東京に大きな地震がくると言われてきた。
「そのうち」がこないまま、大人になってしまった。

阪神・淡路のとき、第一報をみても被害があれほど大きくなるとは思わなかった。だって関西だもの。

今回の震災も、揺れている間は東京がメインなのだと思っていた。
で、この程度の揺れなら「震災」ではないな、と。
でもそういえば、最近よく東北が揺すってたなーと気がついてから、あちらがメインならこれは「震災」に間違いないと思い至った。

こうしてまた、「そのうち」はこなかった。

しかしきっと「そのうち」はくるのだから、決して他人事だと思ってはいけない。

子どもが生まれてから、それなりに備えはしてきた。
そこには阪神・淡路から得た情報も生かしてきた。

・住居
帰宅難民とならないように、勤務先から徒歩で子どもの元に戻れる距離に引っ越した。
 引越し先は、地盤が強く、火災危険度の低いところ
 寝室に背の高い家具は配置しない

・備蓄
子どもを連れての避難所生活は自分もキツいし回りに迷惑もかけるので、家さえ無事ならそこで過ごせるように水と食料を備蓄
 飲料水と非常食を3日分
 米は常に一袋予備がある状態に
 生活用水を別途タンクに保存
 非常用トイレと燃料、ロウソク、防寒用のブランケット
 手回しラジオと懐中電灯
 

引っ越しておいたおかげで震災当日の夜までに息子を引き取ることができたし、備蓄のおかげで水が買えなくなった時も慌てずに済んだので、これまでの準備も無駄ではなかったのは良かった。
けれど今回の震災、原発パニック、計画停電の様子を見て、まだまだ足りないと気がついたことも多い。

①水と食料の備蓄が足りない
津波がなかったとしても、これほどの大都市が壊滅したら3日で復旧は無理だろう。
しかも、現在の住居は団地の10階。エレベーターが使えないと水を運ぶのは大変。
事態が落ち着いたら水と食料をせめて倍にしておきたい。

②避難リュックの中身
用意したものを何でもかんでも詰め込んでいたが、自宅避難で使用するものと、自宅が使えない場合に避難所へ持っていくものは分けるべきだと気付いた。

③子どもだけで避難の可能性
息子が4年生になり、留守番することも増えた。
一人でいるときに被災する可能性を考えて、子供用の避難リュックを用意した。食べ物・飲み物・救急セットと、どう行動するべきかを書いたメモを入れた。
懸案事項は、携帯では連絡がとれないだろうこと。高性能トランシーバを持たせたいぐらいだが・・・

④外出時被災の可能性
ポーチにミニ防災セットを用意。栄養補助食品とゼリー飲料、救急セット、保険証、携帯の充電器などを入れて毎日持ち歩く。

⑤停電の備え
懐中電灯は家族で1つではなく、1人1個に。据え置いて使えるものも用意。
冬用に湯たんぽを購入。
空のペットボトルに水を入れて凍らせたものを何本か冷凍庫に入れておく。

改善できたこともあるけれど、解決できずに残ってしまっていることも・・・何より心配なのは、子どもの通学路が住宅密集地の細い路地であること。いかにも倒れそうなブロック塀や古い木造住宅もあり、学校に提言してみようとは思うが、位置的にちょっと遠回りくらいでは回避できそうにない。
とりあえず地震後は学童クラブまで毎日迎えに行っていたので、帰りがてら危険箇所を2人でチェックし、「ここで地震が来たらどっちへ逃げるか」を話した。

どれだけ備えても絶対安全とはならない。
それでも、我が家はただでさえ人手が足りないのだから、できるだけのことはしておきたいと思う。

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企業を見る目

4月 10, 2011

普段、企業に対する評価ってどうしてもネームバリューやイメージや好き嫌いになってしまう。
今回の震災で考えさせられたのは、社員が「動ける」かどうか。

週刊誌からの飲用になってしまうが、伊藤園は震災から3日で60万本の飲料を被災地に届けたそうだ。
しかも、本社からの命令を待たずに、各営業所が独自に判断して在庫を配ったという。
コレに関する伊藤園広報のコメントは
「工場や倉庫にある飲料水は、販売物というだけでなく、非常時には救援物資に変わるものという認識でいます。昔から、“非常時には即座に、飲料水、生活水として近隣へ配布するように”という意識が、全社員に浸透しているんです。今回の震災件での対応は当然のことであって、ボランティアとは考えておりません」
とのこと。

そして、TVネタなのでうろ覚えなのだけど、すかいらーくグループの対応。
仙台工場を地震後間もなく稼動させ(100%自家発電らしい!)、翌日から避難所に炊き出しを実施。最初は現地で調理していたのが、水の事情が深刻なので、水を極力使わないで調理できる形にしてから出荷するように途中からシフト。
これもおそらく、仙台工場の従業員に「すぐ動く」とうい認識があったからこそできたことではないだろうか。
すかいらーくでは阪神・淡路、新潟中越のときも同様の支援を行ったそうだ。

もうひとつTVネタでローソン。
いわきの店舗に商品が届かず、市内にとどまって生活している人たちが食料や生活物資を購入できずにいた。
ローソンでは西日本からタンクローリーでガソリンを確保し、東北優先の体制をとって支援する。
これも、現地で奮闘する店長さんたちがいてこその動きだったし、それに全力で応えた本部も意識が高かったのだろう。

企業や経営者個人からの義捐金とはまた別の話なのだ。
ニュースにはならなくとも、中小企業がそれぞれに支援活動を行っている例もきっとあるだろうが、それともまた別なのだ。

トップから末端まで、同じ意識を共有できているかどうか。
いざというとき現場が独自に判断して動ける体制になっているかどうか。
会社が大きくなればなるほど、難しいと思う。
伊藤園、すかいらーく、ローソンといった大企業でこれが成し遂げられたことに感心した。
他にも探せば出てくるだろうが、東電で「日本企業」にがっかりしていたところへこういった話を聞いたので、少し安心した。

非常事態だからこそ、企業の体質が見えてくる。
会社が大きくなればなるほど、社会に対するアクションの効果も大きくなるのだから、「何ができるか」「何をすべきか」を常に考えて欲しい。

で、とりあえずガストで食事してみたw
ローソンちょっと遠いんだけど、足を伸ばすよ。
伊藤園は昔から好きなんで、これからも買う。

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この国が好きなんだな

4月 3, 2011

この国が好きか?

私たちの世代はこのような問いに慣れていない気がする。
「ニッポン!チャチャチャ」と叫びながら、「愛国」なんて言ったらひいちゃう。

私は「ニッポン!チャチャチャ」は嫌いなのだが、
年をとったせいなのか、震災のせいなのか、今すごく実感している。

私はこの国が好きだ。

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「はやぶさ」が帰ってきたとき、それを成し遂げた方々の技術力だけでないマンパワーに驚嘆した。
大小の工場からさまざまな得意分野を持ち寄って、それを結集しコントロールして偉業を成し遂げた。
幾多のアクシデントを、ねばり強さと用意周到さとチームワークで乗り切った。
彼らを育てたこの国の環境が嬉しかった。

だがその同じ国が、
企業と国の癒着、カネ至上主義の安全軽視、危機管理能力の欠如のフルコースをさらけ出している。
ガッカリだ。そして恥ずかしい。

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東北には縁が薄く、訪れたことも数回しかない。
それでも、津波に破壊された町並みを見て「原風景」を失った気がした。
海と山。港と田畑。漁業と農業と工業。
数字ではなく、モノで商売するひとたち。

個人的に被害を受けてはいないが、この国の一員として、国の足元を支える部分が大きなダメージを受けたことに、動揺している。

本当にやばい。なんとかしたい。で、何ができる?

政府や東電の対応には怒りと無力感を感じているけれど、
それと同じくらい、自分の役立たずっぷりが情けない。
30過ぎたいい大人が、国のために、子どものために、役に立てる技能の一つももっていないとは。

この国が好きだから、ここから逃げ出すことがベストになってしまうような結末は望んでいない。
そのために、私でもできることは、何だろう。

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保護者につき

4月 2, 2011

震災から3週間。
そんなに経ったか?
時間の感覚がおかしくなったみたいだ。

被災はしていない。
家族も家も無事。
いろいろと品薄だけれど、備蓄もあったので困窮はしていない。
勤務先も計画停電の影響は受けていない。

それでも、この3週間はジワジワと効いてくる重さの中で過ごしていた。

自分ひとりなら、もともと長生きしたいとも思っていないし、なすがままで良いと考えていただろう。
でも、息子がいる。
もし自分で考えられるほどの年齢で、同じくなすがままで良いと判断すれば、それはそれでいい。街を出る、国を出ると言うならそれもいい。
けれど今はまだ、私はこの子の「保護者」だから。
この子にとってのベストは、私が考えてやらなくては。

「ただちに影響はない」=「そのうち影響がある」だと思っているが、
今日現在のところ、避難するダメージ>避難しないダメージと判断している。
完全な文系脳のため、事態をきちんと理解することは難しい。
できるだけ多くの意見を読んで、「危険厨」でも「安全厨」でもないあたりを参考にしている。
毎朝毎晩、各地の計測値をネットで調べ、自分の判断は間違っていないだろうかと自問自答している。

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目を覚まさなければ。
3週間の時間の流れを実感できないほど、私の感覚は鈍っていたのだ。
きっと心のどこかで、殻に閉じこもって見守っていれば事態が好転するのではないかと期待していた。

それは、もうない。
悪化したまま、もしくはさらに悪化。

そこまで認めたうえで、その中で子どもを守り、生きていく腹を決めなければ。