‘ビル’ カテゴリーのアーカイブ

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至福

10月 29, 2009

スネ夫の顔が重なってるように見えるんだよね。
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ふと気づいたのだけど、今って私の人生の中でも一番幸せな時期なのではないのだろうか。
「一番」と言い切るには早いかもしれないが、年を取ってから懐かしく思い出し、「あの頃に戻りたい」と思うならば、その「あの頃」はまさに今なのではないかと思う。

息子は手がかからなくなった。
自分のことはたいてい自分でできる。
だけどまだままだ甘えん坊で、仕草も可愛い。
こどもらしい素直さを残しつつ、少しずつ自分の頭で考えようとしている。

ちょっと前まではどこへ行くにものも付いていてやらなくてはならなくて、
私の行動はひどく制限されていた。
でも今は、一緒に過ごす時間は一日のうちほんのわずか。
自分のために使える時間も増えた。
かといって離れてしまったわけではなく、夕方になれば「ただいま」と帰ってくる。
母はまだ不動の地位を保っている。

なんて素晴らしいのだろう。

そしてなんて哀しいことだろう。
いつかはこの時間が終ってしまうなんて。

せっかく気づいたのだから、この貴重な時間をしっかり味わいたい。
老後のために懐古メモリをせっせと蓄えねば。

今夜も息子の寝顔は極上だ。

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かくかくしかじか

10月 17, 2009

このビルの、この角度が好き。
角ばり具合がとてもよい。
それと、窓の凹みの影がよい。

論理的な人間ではないので、普段は「なんとなく」とか「テキトー」で生きている。
ちょっとしたズレは、「まいっか」で済ませる。
10回に1回くらい、「まいっか」は「ぜんっぜん良くない」に育って帰ってくる。
その時はモチロン焦るけれども、10回に1回の不始末に全力で立ち向かえば、残りの9回は「まいっか」で済むというわけで・・・この生き方がやめられない。

小さなプラスがたくさん。大きいマイナスが少し。
どうせ最終的にプラマイがゼロならば、中くらいのプラスとマイナスを同数にしとけよとも思うが、つい目先の小さいプラスに騙される。

で、こんな非論理的な自分だけれども、凹んでしまったときには逆にその理由を突き詰めないと立ち直りのキッカケがつかめなかったりする。
「かくかくしかじか」と自分自身を説得しないと、どうしても「まいっか」で済ませようとしてしまうからだと思う。

以下、かくかくしかじか
・凹むのは、自分が自分と向き合えていないことを自覚しているから。
・自分と向き合えないのは、あちこちで生じているズレが飽和に近づいていることから目を逸らしたいから。
・目を逸らしたいのは、ちょっとやそっとじゃズレを修正できないことが分かっているから。
・ズレが修正できないのは、自分の力だけじゃいかんともしがたい問題が混ざっているから。

さて、ここで問題。
①自分の力だけじゃ解決できないと分かっていて、でもできる限りあがいてみる → やっぱりどうにもならないと再起不能
②自分の力だけじゃ解決できないと分かっているから、無駄なあがきはしない → 大きなダメージは当面うけないが、問題は解決しない

若い頃は①が多かった。
若さがあれば、意外と再起できるもんだ。
だけどもうそんなにタフじゃない。
それに、自分ひとりの生活じゃないからリスクは冒せない。
でも、②でどこまで行けるんだろう。「当面」はいつまでもつんだろう。
「当面」の後に、カンペキに育ちきった「ぜんっぜん良くない」が帰ってきたら、それこそゲームオーバーなんじゃないか。

結局ここをグルグルしてる。
でもまぁ、かくかくしかじか、多少気分は良くなった。

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ケロリン

7月 21, 2009

やっぱり壊されちゃった。
ビルの骸骨は不思議な感じがする。

中に詰まっていた時間がこぼれ出す。

先日、朝起きたら熱が37.4℃あった息子。
平熱が35℃台だからやけに熱く感じる。

「学校やすむ?」
と聞くと
「やだ。絶対行く」
と半泣きでいうので
「そんなに学校好きだったっけ?」
と思ったら
「給食の完食記録がきれちゃう!」
だって。

なんだそれ。
皆勤賞がなくなる!とかならまだ分かるけど。

おバカだな。可愛いな。まぁそれじゃ行ってみれば?
具合悪くなったら電話しなよ。

結局学校から電話はなく、学童に連絡して熱を測ってもらったら38℃超え。
「でも元気ですよー。アイスおかわりしました。」

その日は早退して早めに寝かしたら、次の日はケロっとして
「今日はプールだ!!」
健康って素敵。

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心残り

5月 16, 2009

今にも崩れそうだなぁ。大丈夫かなぁ。
と思っていたこのビル。
ある日通りかかったら、1階に入っていた飲食店に「移転しました」の張り紙が。
取り壊しフラグ?

人生の成功とは、
自分の命が終わるその瞬間に「生まれてきて、良かったな」と思えること
だと思っている。

そのために必要なのは何だ?達成感?満足感?
よくわからないけど、何かをやり残して死んでしまっては「ダメ」なんだろうと、漠然と考えていた。

30歳を過ぎてなお、自分のやりたいことに手もつけられていない。
息子もまだ小さい。せめてこの子が成人してからでないと、死んでも死に切れない。
親も、娘が先立てば悲しむだろう。
だから、今死ぬのはイヤだ。と思っていた。

だけど、毎日誰かがどこかで突然の死を迎えている。

事故で。
事件で。
病気で。
天災で。
戦災で。
みんな、もっと生きたかっただろうに。

では寿命で儚くなれば、心残りはないのか。そうでもない。
不慮の死に比べれば、大分心構えも備えもできているだろうけど。
もう十分だよ、と思いつつ、庭に咲いたばかりの花の水遣りだとか、孫の結婚式だとか、遺していく老いたパートナーのことだとか、心配事は尽きないだろう。

世の中で、生と死だけが万人に平等に訪れる。(訪れ方は不平等だが。)
日々の生活は連続体だから、全てやり遂げて死ぬなどありえない。
まぁどちらにしろ、死に方は選べないのだな、と妙に納得。
選べるのは生き方だけ。

失敗したこと、封印してしまいたいほど恥ずかしい過去の自分、思い出しただけで息切れするハードな日々・・・すべてくるんで、今の自分が好きだ。
そして、息子が私の元に生まれてきてくれた。

心残りは多々あるけれど、今なら「生まれてきて、良かったな」と思いながら逝ける気がする。

そんな毎日を重ねて、まだまだ生きていきたい。
だってやっぱり、泣き虫なあの子を置いては逝けないから。

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悪夢

4月 19, 2009

取り壊しかけ?で放置されたビル?
覆いもぼろぼろになるまで放置って、何があったのか。

暖かくなってくると、冬用の布団が暑くて重くて、うなされることがある。
 
 
 
 
私は怒っていた。同時に嘆いていた。
息子のしたことは、叱らないで済ませられるものではなかった。
小賢しいガキ、要領だけはいい軽薄な学生、強いものに媚び弱いものを虐める卑怯者、日和見のコウモリ・・・そういった類の人間がするようなことだった。

どうしてソレがいけないのか。
なぜ母さんは怒っているのか。
切々と説いても伝わらない。

口では謝りながら、ヘラヘラと笑っている。
それどころか、私を見下したような目で見ている。
そんなことでマジになるなんて、馬鹿じゃね?

どうしてどうしてどうして。
真っ直ぐだと思ってた子が、単純を絵に描いたような子が、なんでこんなになってしまったのだろう。
どこで間違えたのだろう。

憤りは情けなさに変わり、やりどころの無い感情に締め付けられ、私は息子の胸倉を掴んで怒鳴りつけた。
それでもニヤニヤと笑うだけの息子に、キレた。
殴る。何度も。

なぜ?なぜ?殴る手が止まらない。
止めたいのに、止まらない。
だって、止めたってこの子が元に戻るわけじゃない。
でも、このまま殴り続けたら何かが変わるのだろうか。

自分のうなされる声で、ここで目が覚めた。
 
 
 
 
どうして、こんな夢を見るんだろう?
現実の息子は、とても可愛い。
子供らしくて、ヒネた所がない。
夢の中の息子は、本物とは似ても似つかない、憎たらしい顔をしていた。

だが、夢の中の私は、それほど現実離れしているわけではなかった。
息子が1才くらいの頃だったか、育児の閉塞感の中で手を上げたこともあった。
今でも、嘘をつかれたりすると「裏切られた」という気持ちに支配されて、怒鳴り声で説教してしまう。胸倉を掴んだことも、実際にある。

感情的な自分への嫌悪感。
自分のコントロールが効かないところで着々と一人の人間が出来上がっていく恐ろしさ。
まだ見ぬ将来の不安。
それらは、現実に存在する。
 
 
かつて、息子と私は一つだった。私が、息子を、内包していた。
身体が外へ出ても、母が子供を包み込む感覚はそのまま残る。
包み込んでいるのに、その子供は成長につれ自己を発達させ、母親とは別の人格としての行動が増えていく。
それは正常な発達なのだが・・・なぜか喜びとともに不安をもたらす。

私の中に、別の人間がいる。
最初は自分と同一視できるほど一体化した存在だったソレが、
いつしか他人になっていく。
ただの他人ならまだしも、ひとつ間違えばソレは怪物になる。

私は息子を愛しているし、彼の性格は一般的に見ても好ましいものであると思っている。
しかし、「ウチの子に限って」とは思っていない。
ペシミストで性悪説信者なので。

何かのキッカケで、カワイイあの子は悪になるかもしれない。
親として、そのキッカケは阻止することができるだろうか。
否。
どんなに頑張っても、
力の及ばないところで思いがけないことが起こるのは止められない。
また、所詮親もただの人間。間違いもしょっちゅうである。
その中のどれが、子供に決定的な影響を与えるのか、分かるはずもないし、分かったところでどうにかできるものでもない。

不幸な出来事があっても、その後のフォローでリカバリできるだろうか。
それも否。
一度転がりだしたものは、方向を修正することはできても、元に戻すことはできない。

世の中の親たち、誰が好き好んで犯罪者を産み育てるだろう。
それでも、犯罪者は存在する。
有名な犯罪者たちの経歴には、確かに共通して悪親の存在が認められることがあるが、逆に言えば、フツーの親から産まれ、フツーに育てられたのに犯罪者となることも多々ある。

全ては運、めぐり合わせだと思っている。

日々真っ直ぐに考え、不器用でも最善を尽くし、子供を愛し、自分を愛し。
そして良きめぐり合わせを引き寄せる。
親にできることって、こんなに小さなこと。
小さなことを積み重ねて、必死に創り上げて、あとは
壊されないように祈るだけ。

子育ては、それ自体が悪夢でもある。

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健康優良児

3月 27, 2009

こういうエッジのきいたビルは、普通にかっこいい。
横断歩道の真ん中で立ち止まってビルの写真を撮るのは、
思ったよりも恥ずかしかったけど。

通知表を持って帰ってきた。
お勉強はまぁまぁ。というか、小学校時代の成績はあまり当てにならないのは自分でよく分かっているので、ソコソコできているならヨシ。

それより何より、1年間欠席ゼロ。
そして「ペロリ賞」オールコンプらしい。
毎日給食ガッツリ食べました!と。
お腹も健康ってことだ。
ええ子やなー。

身長も伸びた。
足もでかくなった。
プールの級が上がった。
お留守番もできる。
お風呂掃除もトイレ掃除もできる。
歯も抜けた。

そして最近やたらカワイイ。

あぁ。
どんどん大きくなってしまう。

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まけ犬の遠吠え

3月 8, 2009

三段窓がかわいい。
上から開ける。
下から開ける。
真ん中は動かないのだろうか?
上と下が重なることは永遠にないのだろうか?

ある女性芸能人が、不倫相手の妻から慰謝料を請求されたという話。

終わったつもりでいても、こうゆう話を聞くたびやっぱりイラっと来てしまう。
この男もやっぱり、「妻とはもう終わってる」とかのたまわったんだろうか。
終わってんなら離婚届だせや。
少なくとも一方が終わってないから、離婚してないんだろうが。
たとえ惰性であっても、終わっていない以上「何か」が続いてるんだよ。

夫婦とは契約だ。とよく言われる。
悪魔の契約と一緒。権利とともに義務が生じる。
一度結んだら、勝手にはやめられない。
簡単にやめられるなら、契約いらないでしょ。

「心」は変わる。それを縛ることはできない。
でも移ろい行く心を「家族」という枠に繋ぎとめるために、結婚という契約がある。
たとえ心が離れても、家族の形をとどめる努力をする義務がある。

だから私は、結婚するつもりはなかった。
自分の心が移ろいやすいのを知っていたから。
心のままに生きたかった。

でも夫に強く望まれて、まぁこの人のためなら、契約維持の努力もしてもいいか、と思って結婚したんだが。
先に努力を放棄したのはあっちだったわけ。

2人はダメになっていた。それは本当。

でもコチラは時間をかけてでも修復しようと努力してるのに、アチラは新しい恋?に舞い上がって気づいていない。または見てみぬフリ。
そりゃ努力なんてめんどくさいもん。
恋のほうが楽チンだもん。

もしくは、ダメであってもそれなりの「夫婦の形」であろうとコチラは思っているのに(以下同上)

でも、私は慰謝料請求、ちょっと考えはしたけど、やっぱりできなかった。
そんなことより早く、抜け出したかった。
暗くて苦しい世界から。

それは逆に、コチラに未練があった証かもしれない。
相手に慰謝料請求できる奥さんは、実は心の中ですでに「終わっていた」のかもしれない。
だけどやっぱり、男の「妻とはもう終わってる」は、一方的だから信じるに値しないと思う。

好きになった相手にたまたま家庭があったとおっしゃる女性の皆さん、
奥さんに「あなたも終わってるんですか?」って確認とってから正式におつきあいなされるのが良いかと思います。
不倫であっても、あなたの愛情に嘘はない。そうかもしれない。
でも契約には必ず「相手」が存在します。
愛情は終わっていても、契約は終わっていないと思っている奥さんは結構いると思いますよ。

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背中

1月 31, 2009

ビルではないけど

バス停に屋根が付いた。
新品の屋根があんまり綺麗だったので。

息子にどんな大人になってほしいかと聞かれれば、「プロ」になってほしい。
お金いただいて仕事してりゃみんなプロなんだけど、もっと精神的に。
俺はコレで生きてるんだ!って胸張って言えるような仕事で、食べていけるようになってほしい。

これは案外ムズカシイ。

偉そうに言ってる私だって、結局そうなれないまま30過ぎてしまった。

私が明日仕事を辞めても、1週間もすれば何事もなかったかのように会社は回る。
そして辞めたほうの私も、何事もなかったかのように次の仕事場で働いていく。
「私の職業」不在である。
私は、時間を売っているに過ぎない。
だけどそれで毎日の糧を得ている。

私の学歴を聞くと、たいてい「英語ができる」と思われる。
が、実際できない。
別のことを専門にしていたから。
じゃあその専門のことができるのかといえば、これもできない。
卒業後、そこから離れてしまったから。

専門から離れてしまったのは、結婚相手に生活を合わせてしまったからで、
少し後悔はしている。
でも、「その道に進んだ自分」と「今の自分」を取り替えるかと聞かれれば、NO。
結果論ではあるけれど、息子との生活は何物にも替えがたい。

このように人生は流動的で、人は流されやすく、プロへの道はつかめそうでつかめない。

つかみ損ねても、つかみ損ねても、つかみ損ねても・・・それでもなお、つかみに行こうとする気持ちを持ち続けること。親として、せめてそれを示さなければ。

今、私の背中は、息子に見せるに値するだろうか。
ちょっと焦る。焦るけど日は過ぎる。
日々の慌しさは、人を鈍らせる。

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明けました

1月 2, 2009

煙りをあげて。汽笛を鳴らして。

あっという間に年が暮れて、気が付いたら年が明けて。
そもそも、何が終わるわけでもないし何が始まるわけでもない。
新年のカウントダウンなんて人間が勝手に決めた区切りに過ぎない。

だけど待て。
もしもこの区切りがなかったら。

ヒトの営みは1サイクルが長い。
生まれてきて、先代から生きる術を引き継いで、新しい世代を生んで、生きる術を伝えて。その後、死まで時間が余る。
サイクル中の仕業ひとつひとつにも、それぞれ時間がかかる。

この状態で区切りがなかったら。
毎日毎日同じことの繰り返し。先の見えない単純生活。

もちろん日々それぞれ、新しい出来事もあれば、成長、出会いに別れ、挫折と成功…事件は起こる。
でも基本、種族としての営みが延々と続く。
目覚めて働いて食べて繁殖して眠る。

耐えられないと思うんだよね、そんなの。
どこかで一旦リセットして、心機一転スタートする時がないと。
嫌なことも辛いことも、去年のことさと置いてきて。
どうせ目の前に待っているのは昨日の続きだと分かっていても、深呼吸して新たな一歩を踏み出したい。

正月準備の忙しい中、きんとんの鍋に張り付く数十分の間だけ、ふと時間の流れがゆっくりになる。
黒豆の鍋を左に睨みながら、右手のへらはゆっくりと黄色いペーストにのの字を描いている。
そして考える。

あぁそうか。今年も終わる。
息子は一年間健康に過ごした。
その笑顔は、まだあどけなさをたっぷりと残している。
自分もおおむね健康でこられた。
稼ぎは少ないがこのご時勢にまだ仕事はあるし、食うに困るでもない。
それに、たくさんの人たちに良くして貰った。
幸せなんだな。
来年もこの幸せを逃さないように、地に足をつけ、顔を上げてやっていこう。

そうして新年がやってきた。

あぁつまり、人間が勝手に決めた区切りなんだけれど、
いやむしろそうだからこそ、できるだけ意識して迎えたいと思う。
大掃除も年賀状もおせち料理も年始回りも、日常にはないことだから正直ちょっと面倒ではあるが。
ここできちんと儀式をこなして仕切り直すのが、自分の精神衛生上も良いのではないかと思ったのでした。

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遠いニンジン

12月 11, 2008

ガラス張りでも、こういうちゃんと(?)反射する壁は好き。
チェスかオセロか。
鏡の国のアリス。

馬の鼻先にニンジンぶらさげて・・・なんて言うけれど、人間サマはそう簡単にいかなくて。

個人面談で、ウチの子って雑ですよねって言ったら、「はぁ、まぁ」と。
否定はされなかった。
字の練習にしても、計算ドリルにしても、「早く終わらせること」には一所懸命なんだけど、過程を大事にしない。
ゴールのことばかり考えて、そこに至る道を楽しめない。

たしかにね。
ひらがなカタカナ漢字の練習。
延々つづく足し算引き算。
つまんないよね。

通ってきた道だから、よくわかるさ。

初めて勉強が面白いって思えたのは・・・中学の地理。
それから高校の世界史。
そして受験勉強に入ってからの英語。
それにしたって、今思えば先生がアタリだったから面白くなれたってもんで、運が良かっただけ。
大学に入ってからは、専攻の授業はひたすら面白かったけど、ここまで来てやっと自力なんだな。

面倒だと思っても、無意味に思えても、馬鹿馬鹿しさを感じても、
なんとなーく続けて
たまには多少の負けず嫌いでやる気出してみて
そうしている間に
やりたいこと、行きたい学校、自分らしさを考えられるだけの素地ができていたのだろうか。

でもそれは、今だから言えること。
ましてや小学生には解らないこと。
でーーーーーっかいニンジンがぶらさがってるんだけどね。鼻先どころか、遥か先なの。
姿も見えず、匂いも届かず、ただ前を見つめて歩けったって無理な話さ。

だから、足元を見てみよう。
ゴールじゃなくて、今踏みしめている土に目を向けよう。
たまには空を見よう。
遠くの星じゃなくて、どこへ行っても着いてくる月を感じよう。

因数分解とか代数幾何とか、「将来絶対使わないじゃーん」と赤点取りまくりだった文系高校生は、大人になってやっぱりそんなもの必要ない毎日を送っている。けど。
ひたすらノートを練習問題で埋めて留年だけは免れたあの日は、それはそれでいい思い出だよ。

学ぶ楽しさ。いつか出会えるからね。
だから今は・・・ごちゃごちゃ言わずにやれー!